Red Hot Chili Peppers 33曲(You Tube)
Red Hot Chili Peppers (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)の概要
バンドのルーツの一つに80年代パンクがあり、自身もメジャーデビュー前はLAのアンダーグラウンドで活動していたものの、インディでのリリース歴はなくアンチ商業主義を前面に押し出して活動していたわけでもないが、ファンク、ラップ、パンク、ロックなどを融合した斬新な音楽性で90年代にオルタナムーヴメントを牽引したバンドの一つ。
今でこそ誰でも知っているアメリカを代表するビッグなロックバンドとなったが、80年代は完全に下積み時代で、レッチリが台頭してきたのはグランジ・オルタナ・ムーヴメントによるところが大きい。
アンソニー・キーディス、フリー、ヒレル・スロヴァック、ジャック・アイアンズの4人で83年にLAで結成。84年の1stと85年の2ndアルバムの質は高くなかった。
87年の3rdアルバムThe Uplift Mofo Party Planがまずまずのデキで、全身ペイントやチ○コソックスなどのパフォーマンスも勢いづいてきた。
しかし、88年にヒレルがヘロインの過剰摂取で他界、ヒレルと中学生の頃からの親友だったジャックは神経衰弱に陥り脱退。
ショックを乗り越えバンドは存続を決意し、ジョン・フルシアンテとチャド・スミスが加入、黄金のラインナップが誕生する。
89年の4thアルバムMothers Milkでゴールドディスクを獲得し、徐々に注目を集めていった。
91年にはNirvanaのNevermindと同時期に5thアルバムBlood Sugar Sex Magikをリリース。
当初は20~30位止まりだったが、Pearl Jam、Smashing Pumpkins、Nirvanaを前座としたツアー、シングル曲Under The Bridgeのヒットなどによりオルタナムーヴメントの波に乗り、最終的に900万枚以上売り上げトップバンドとなる。
しかし92年の5月、日本公演中にジョンが突然バンド脱退を宣言して帰国してしまい、残りの日本公演はキャンセルされた。
脱退理由は本人の口からは成功に対する罪悪感とストレス、ロックスター志向のアンソニーとの対立と語られたことがあるが、他の理由もいろいろあるようだ。
インタビューによって言っていることが違ってたりするのだが、成功によるストレスよりも人間関係の悪化が主な原因のようだ。
もし俺たちが人間として仲良くやっていけてれば、何の問題もなかったよ。
当時一番大きな問題だったのは、バンドをやっていながらアンソニーと誰も仲良くなかったことだったんだ。
そして徐々に俺とフリーが…俺とフリーの間にも緊張感が生まれていった。
そういう状況に置かれると、バンドをやることは楽しくなくなるだろ?
(中略)
当時は俺が経験してたパーソナルな問題もあってね、俺の脳の中で起きていたこと、心理的な問題もあったんだ。
だから……全ての問題の原因を成功のせいにするのは容易かもしれない。
そういうことじゃなくて、成功によって自分が何らかの不快感を感じてても、一緒に活動してる人といるのが楽しければ耐えられるんだ。
周りの人間のサポートがあれば、共感してくれれば大丈夫なんだ。
でも彼らがただ自分のことを頭がおかしい奴っていう目で見てると……一緒にツアーすることなんて耐えられなくなるし、続けることが不可能になる。
ジョン・フルシアンテ / クロスビート2003年12月号から引用
バンドは崩壊状態に陥ってしまったが、アリク・マーシャルをギタリストとして迎え入れ、ジョン脱退から2か月後にもかかわらずロラパルーザのヘッドライナーとして出演。
火吹きヘルメットをかぶって演奏するというパフォーマンスが話題となり、ヘッドライナーを見事に成し遂げオルタナバンドとして頂点を極めた。
「ブラッド・シュガー」とロラパルーザのおかげで、俺たちは一気にメジャーになった。
巷にオルタナ一大旋風が吹き荒れてた。
時代も業界も、ようやくチリ・ペッパーズに追いついたっていう感じだったね。
時代が変化を求めていたんだ。
キッズがヘア・メタルに飽き飽きしていたところにグランジが来た。
あれは、本当の自分を見失うな的な動きのロック版だったんだ。
俺たちのことを新興勢力的な目で見る連中もいたけど、こっちとしてはそれまでと同じことをやってるだけだった。
チャド・スミス クロスビート2011年7月号から引用
しかしアリクとは音楽的に合わなかったようで約1年で解雇、最終的には元Jane’s Addictionのデイヴ・ナヴァロがギタリストとして加入した。
95年にOne Hot Mimuteをリリースし大ヒットを記録。
しかしデイヴとの相性の悪さや擦れ違いを指摘され、解散説まで噂されるようになり、結局98年にデイヴは脱退し、再びバンドは崩壊状態に。
俺たちはデイヴ・ナヴァロと別々の道を行くことに決めただろ?
これは単純にうまくいかなかったってことで……つまり、俺たちがデイヴをクビにしたんじゃないし、デイヴが出ていったんでもない。
ただ、何かはっきりしないものが……ある人間同士の間では起こり得るマジックが、俺たちの間では起こらなかったんだ。
フリー / クロスビート1999年6月号から引用
フリーは、バンド存続のためにはジョンを復帰させるしかないと考え、黄金ラインナップ復活を実現。再び不死鳥の如く蘇った。
今の俺たちはバンドとして今までで一番まとまっているんで、また一つになれるんじゃないかな。
実際俺とアンソニーも今までにないくらいうまくいってて、これまで彼と一緒にいてこんなに楽だったことはないんだよ。
(中略)
それに俺とフリーに関しては、人生という本の同じページに存在してるって気がしてるしね。
ジョン・フルシアンテ / クロスビート1999年6月号から引用
99年のジョン復帰後第一弾アルバムCalifornicationでは、レッチリらしさを残しつつも哀愁感を漂わすなど、「大人のレッチリ」に進化してみせた。
その後はメロディアスな路線を推し進め、2002年にリリースされたBy The Way、2006年のStadium Arcadiumともに大ヒットを記録するが、この頃になるともはやオルタナディヴだとはいえず、音楽的に冒険しない退屈な刺激不足のスタジアムバンドと化してしまった感がある。
2009年1月にジョン・フルシアンテはThe Empyreanというソロアルバムをリリース。
その際のインタビューでは、ファンの期待やビジネスが関わってくる状況下での音楽活動が嫌になっているとしか思えないような内容だった。
正式な発表はなかったものの、この時点ですでにジョンはレッチリを脱退していた。
レッチリは世の中でも特定の捉えられ方をしてるし、ファンが期待してるものも決まってるんだ。
だからレッチリのために曲を作るときは自分のアイデアを事前に編集しなくちゃいけない。
俺が自由にアイデアを提供してるわけじゃなくて、このバンドのエネルギー、意図、そして境界線の中で自分のアイデアを提供してるってわけさ。
レッチリみたいにラジオバンドとして知られてると、こういう曲をやっちゃいけないって枠が決められるだろ?
ラジオでどういう曲が流れるか、ファンがどういう曲を気に入るかという既成概念があるからね。
だから、ソロよりもレッチリで活動するときの方が自分の中で葛藤があるよね
でも、ソロ作品を作るときは必ず楽しみながらリラックスして制作するようにしているし、自分のアイデアを自由に探究することに専念している。
ジョン・フルシアンテ / クロスビート2009年3月号から引用
その後の2009年12月にはジョンが、1年以上前にレッチリを脱退したと正式に発表。
バンドはその後ジョシュ・クリングホッファーが加入、2011年には10thアルバムI’m With Youを、2016年にはThe Getawayをリリースしスタジアムバンドとしての使命をまっとうしている。
対照的にジョン・フルシアンテはソロ活動でオルタナティヴな路線を貫いた。
そして2019年にはジョン・フルシアンテがレッチリに復帰すると発表された。
関連リンク
Red Hot Chili Peppers (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)のアルバム紹介
おすすめアルバム
Blood Sugar Sex Magikは90年代を代表するアルバムのひとつ。
ジョン復帰後の名盤。
本人たちはラップ・メタルのようなアプローチを気に入っていないようだが、世間では評価が高いアルバム。
デイヴ・ナヴァロ時代の唯一のアルバム。一般的に評価が低いが個人的には悪くないと思う。