SUB POPの商業活動

発足当初は弱小レーベルであったサブ・ポップだが、次第に独自の手法でインディ・シーンに居場所を見出していくことになる。

彼等はバンドではなくSUB POPというレーベルを売り込んでいったのだ。
今となっては驚くべき手法ではないのだが、当時は斬新だった。

ニルヴァーナのラヴ・バズのシングル発足当初は、契約しているバンドがアルバム製作に十分な曲を持っていなかったこともあり、シングルが主力であったが、インディ・パンクのシングルはレコード・コレクターに人気が高く、次第に「そこそこの作品をリリースするレーベル」として信頼を築いていった。

そして、入会者だけにシングルを発送する「シングルス・クラブ」を立ち上げまずまずの成功を収めた。
ちなみにこのシングルス・クラブの第一弾はNirvanaのLove Buzzだったらしい。

レコードには印象的なレーベル・ロゴが印刷され、バンドのツアーにはSUB POPとペイントされたバンを使用させ、Loser(負け犬)と書かれたレーベルのTシャツを大量生産することによりレーベルを売り込むことに成功していく。

シアトル・ロック・シティと題された記事1989年、シアトル・シーンにとって重大な出来事が起こった。
SUB POPが自腹を切ってイギリスのジャーナリストを数人シアトルに招待したのだ。
メロディ・メーカー誌で「シアトル・ロック・シティ」と題された記事になり、シアトルが世界規模で注目を浴びるきっかけとなった。

この出来事を境にシアトル・シーンは活気付いてゆく。
「グランジ」というキーワードがこの頃から顔を出し始め、シアトルのライヴ・イベントに来る客は3倍になり、Soundgarden、Screaming Trees、Mother Love Bone、Alice In Chains、Posiesといったところがメジャー・レーベルと契約するに至ることとなった。

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